おもなターゲット
伊良湖水道と紀淡海峡(中央構造線)
生駒山地(白亜紀後期の花崗岩と斑れい岩)
近畿三角地帯の活断層
名鉄・近鉄・南海の3・3・SUNフリーきっぷワイドで,豊橋から徳島まで中央構造線周辺を見ました.上記3社の電車とバス(高速バスをのぞく)のほか,豊橋鉄道・奈良交通・和歌山バスのバス,ケーブルカー,伊勢湾のフェリーや徳島〜和歌山のフェリーも,連続3日乗り放題で6000円です.
各駅停車で移動することが望ましいのですが、今回は快速や急行を多用してしまいました.まずは地理を大きく把握することを優先しました.
今回の主要な目的は,伊良湖〜鳥羽フェリー,徳島〜和歌山フェリーに乗って中央構造線が通過する海峡を見る,生駒山地の領家帯の岩石を見る,近畿地方に顕著な活断層に区切られたブロック状の山地と平野の対比を見ることでした.
1945年三河地震の震源域の直上地域も回り,中央構造線の南側の高野山・吉野・志摩半島の賢島も行ってみました.
下調べに地形図と地質図を見ていて,生駒山地が2列の隆起帯でできていることと,それぞれが,西側が上がり東側が下がる傾動地塊であることが分かりました.
また生駒山地南部の信貴山の上には,新第三紀の瀬戸内火山岩が載っていることも分かりました.
下車して露頭を見たのは,伊良湖岬で秩父帯のチャート,鳥羽で三波川帯の蛇紋岩,賢島で四万十帯の砂岩・泥岩互層,徳島城で三波川変成帯の緑色片岩,信貴山で領家古期花崗岩と瀬戸内火山岩・凝灰角礫岩,生駒山で領家新期花崗岩・はんれい岩、吉野で四万十帯の砂岩です.
地質図でピンク系統で示されているのが花崗岩.平岡〜大嵐(おおぞれ)の褐色は,花崗岩ではなく領家変成岩です.
向市場駅と城西(しろにし)駅の間には、水窪川の東岸から西岸へ渡りかけた鉄橋がそのままゆるくカーブして東岸へ戻る有名な「渡らずの鉄橋」があります.この鉄橋の場所は両岸とも三波川変成帯です.「中央構造線の破砕帯に当たって設計を途中で変えたのでこんな鉄橋になった」という説明がありますが誤りです.
池場と三河川合の間のトンネルで天竜川水系から豊川水系へ変わります。
東栄→新城(しんしろ)
東栄町の主要部は新第三紀中新世の設楽層群.国道151号沿いでは,鳳来町内には角張った流紋岩が露出しているのに,東栄町に入ると頂部が丸っこい岩が露出しているので,東栄はてっきり花崗岩地帯だと思っていました.これは私の勘違いだったようです。
設楽層群は,中新世前期の,古第一瀬戸内海前期の地層で,地質図では浦川〜東栄と三河大野付近の淡緑色で示されています.東栄〜湯谷温泉の淡褐色部分は,中新世中期に設楽層群を堆積させた海が陸化した後に噴出した火山岩です.
三河槙原と湯谷温泉の間に見える宇連(うれ)川河床の「板敷」の岩盤は,石英分に富む固い火山岩である流紋岩です.
流紋岩の露岩(三河槙原)
豊川稲荷953(名鉄本線急行)→1033新安城1038(名鉄西尾線)→1059西尾1115(名鉄蒲郡線)→1157蒲郡1204(JR東海道線快速)→1214豊橋
豊川で3・3・SUNキップを購入し,新安城へ.
ここから南の領家帯はほとんど変成岩で,海岸付近にわずかに花崗岩があります.
名鉄本線は国府(こう)から美合(みあい)へ,変成岩山地をリニアメント(直線状地形)の凹地に沿って横断します.
矢作川南岸には小丘が点在しているが,たぶん堅いために侵食され残った,チャートを原岩とする珪質変成岩でしょう.昔,西尾市東方の山地にある平原の滝という霊場に行ったことがありますが,珪質変成岩が滝を造っていました.
豊川→新安城→吉良吉田→豊橋
横須賀断層と深溝断層は杉戸・岡田(2004)による1944年三河地震の地表地震断層を示す
杉戸信彦・岡田篤正(2004)「1945年三河地震の地表地震断層」活断層研究24号に、三河地震の震源断層が地表に姿をあらわした位置が詳しく書かれています。
西尾市街地東方の岡崎平野を南北に走り,駮目(まだらめ)からは三ヶ根山地と北方の山地を東西に横切る谷に沿って東に向きを変える「横須賀断層」と,その東方延長がJR東海道線三ヶ根駅付近の深溝(ふこうづ)で向きを南に変えて形原に至り海底に続く「深溝断層」です.
どちらの断層も南北走向部分は西側が上がる逆断層,東西走向部分は北側が相対的に西へ動く左横ずれ断層で,断層を動かし地震を発生させた力は,上記論文では東西圧縮であるとしています.今回は,これらの断層が出現した地域の外周を回りました.
⇒リンク
北横須賀駅付近から横須賀断層(東西走向部分)が通る谷の遠望
豊橋1222(豊橋鉄道バス)→1351伊良湖岬
豊橋→伊良湖岬
渥美半島には標高100〜300mの低山がいくつも孤立して分布し,間を高位段丘・低位段丘・沖積層が埋めています.
地質図で,淡赤褐色がチャート,青が石灰岩,緑が緑色岩です.これらのジュラ紀付加体の岩石が,小山を造っています.
三河田原には以前来たことがあり,蔵王山の三河湾側の海岸付近で緑色岩を採掘している採石場と,蔵王山西麓の石灰岩採掘所,その南西の衣笠山滝谷不動のチャートを見たことがあります.緑色岩と石灰岩の間に,三波川変成帯と秩父帯の境界があると考えました.
石灰岩は各所に現われているらしく,ほぼ垂直な石灰岩体の部分だけ溝のように採掘した跡が,バスの窓からも見えました.
伊良湖は「いらこ」ではなく「いらご」と読むことが分かりました.岬の先端付近の露岩にはチャートが目立ちます.頁岩の層理面は走向N68Eで南に22°傾斜していました.20万分の1地質図では伊良湖岬の小山の北半は緑色岩体,南半は秩父帯であるように描いてありますが,少なくとも北半の海岸沿いには,緑色岩体は見られませんでした.時間切れで海岸沿いの1周はあきらめました.
渥美半島は,三河湾沿いのごく一部をのぞき,ほぼ全域が秩父帯に属することが分かりました.
伊良湖岬の植生は常緑広葉樹。東へなびくような樹型は、強い西風が卓越していることを示す。
岬先端の灯台付近のチャート
岬先端の灯台付近の、チャートれきを含む泥質メランジュ
伊良湖岬(秩父帯)
篠島(領家花崗岩)
やがて左側に神島をかすめます.続いて右側に小築海島・大築海島・答志島の列,左手に菅島・坂手島が見え,航路は両方の島の列の間を進みます.
これらの2列の島は三波川変成帯に属し,おもに緑色片岩・緑色岩・かんらん岩・蛇紋岩でできているはずです.しかし船からはチャートらしきものも見え,岩種の判定は困難でした.
伊良湖岬〜神島〜菅島にかけての、三波川変成帯と秩父帯の境界は、私にはまだ納得できません。
神島(三波川変成帯か秩父帯か?)
鳥羽湾内の三ツ島という小島が緑色片岩でできていることは,はっきりと分かりました.
鳥羽港から東を振り返ると,菅島の西斜面の採石場が正面に見え,植生が無い淡緑色の採石跡の斜面がせまってきます.鳥羽地域では緑色岩や黒いかんらん岩の砕石が使われていますが,ここから掘られたものでしょう.菅島の砕石は、船で遠方へ運ばれているようです。
菅島(かんらん岩の砕石場)
鳥羽港はそのまま鳥羽水族館につながっています.年4回発行の冊子『Toba Super Aquarium』(日本語)を毎号送っていただいていますが,すばらしい内容です.ぜひ子どもを連れて見にきたいのですが,なかなか機会がありません.
水族館から国道と近鉄線を越えた向かい側の崖に岩石が露出しています.蛇紋岩でした.
鳥羽水族館付近の蛇紋岩(三波川変成帯)
2003年に、伊勢神宮の裏山の高倉山に緑色片岩,伊勢市内西側の宮川に面した辻久留の採石場跡に緑色岩,二見浦に緑色片岩,鳥羽市北方のJR松下駅付近に黒色片岩を確認しています.
またそのときには鳥羽南方の安楽島(あらしま)の秩父帯の黒瀬川帯に属すると思われる海岸の恐竜足跡化石発見地や,石鏡(いじか)の四万十帯の砂岩も見ました.
志摩半島では秩父帯の分布幅がせまく,三波川変成帯との境界がどうもよく飲み込めません.三波川変成帯の御荷鉾緑色岩体と,秩父帯の黒瀬川帯のかんらん岩・蛇紋岩の区別もよく分かりません.とりあえず鳥羽水族館付近は三波川変成帯の御荷鉾岩体の蛇紋岩であろうことが分かりました.
賢島の砂岩(四万十帯)
徳島駅裏の城山
城山から北方の吉野川を望む
石垣はすべて,この小山を造っている三波川変成帯の結晶片岩で組まれています.ほとんどが緑色片岩ですが石英片岩も少し混ざっています.なかには1辺1mもある緑色片岩の大きなブロックもあります.
赤石山脈の三波川変成帯の結晶片岩はボロボロで,ペラペラに剥げてしまいます.このような大きなブロックが城壁に使われ,その後何百年も割れることも無いなどということは,赤石山脈では考えられません.
徳島には,中央構造線の北側の鳴門付近から撫養(むや)石という和泉層群砂岩の石材が産出されています.徳島城の石垣に撫養石が使われているかどうか知りたかったのですが,まったく使われていないことが確かめられました.
緑色片岩で組まれた徳島城の石垣
頂上の城跡の平坦面は広場になっていて,夜明とともに市民が散歩に登ってきます.城下の町民が祀ってきた小さな祠が守られています。薄く割れやすい緑色片岩の性質を利用した板碑(いたび)がありました.
緑色片岩の板碑
城山から徳島駅や市街地をはさんで南方にある眉山も緑色片岩の山です.
その南麓には徳島県立博物館があり,1999年に見学しましたが,内外装はすべて緑色岩や緑色片岩で統一されていました.
眉山
城山は常緑広葉樹の自然植生に覆われ,山全体が保護され整備された歩道以外は立ち入り禁止になっています.
歩道沿いの緑色片岩の片理面の走向はN86E,南に54°傾斜していました.1ヶ所測っただけで地域全体のことは言えないし,褶曲しているので1ヶ所だけの傾斜データは無意味ですが,走向がこの地域でおおむね東西方向であるとは言えると思います.
城山歩道沿いの緑色片岩の露頭
中央構造線は四国側は吉野川の北側,紀伊半島側でも紀ノ川の北側を通っています.
徳島〜和歌山のフェリーは中央構造線の南側の三波川変成帯の上を行きます.船からは鳴門の吊り橋がよく見えました.
鳴門大橋とフェリー(下り便)
中央構造線が海底を通る豊予海峡・紀淡海峡・伊勢湾口は,いずれも航路で結ばれています.
淡路島の南岸の和泉層群の崖は白っぽく見えます.
1999年に淡路南岸の灘という場所に露出しているとされる活断層を見に行ったのですが,船の上からは分かりませんでした.
やがてフェリーは淡路島南岸沖の沼島(ぬしま)という小島の南を通過します.沼島は三波川変成帯に属し,崖の色は暗色で明らかに淡路島とちがいます.淡路島と沼島の間に中央構造線が通っていて,淡路側と沼島側の地質のちがいは,フェリーからもはっきりと分かりました.
沼島(手前)と淡路島(奥)
紀淡海峡の友が島が北方に遠望できます.
望遠鏡で見ると海岸の崖に和泉層群の層理面にそって侵食されている様子が見えますが,みかけの傾斜は崖の向きにより異なるので,和泉層群そのものの傾斜は言えません.やがて紀伊半島側の和泉山地の末端が見えてきます.昨年見た加太(かだ)海岸は,岬の向こう側になるので見えません.
友ヶ島と加太の岬(和泉層群)
和歌山港近くの南側には緑色片岩でできた二子島と雑賀(さいが)崎が見えます.
昨年,その南東の浪早崎(なみはや)崎で緑色片岩,新和歌浦の鳳来岩が砂質片岩と泥質片岩の互層でできていることを確認しました.
紀淡海峡では,中央構造線北側の鳴門〜淡路〜加太の和泉層群も,南側の徳島城〜沼島〜雑賀崎〜和歌山城の三波川変成帯も,きれいにつながっています.
和歌山からいったん大阪に向かいました.
活断層(赤線)は岡田・東郷編『近畿の活断層』東京大学出版会(2000)による
生駒山地へ向かう近鉄信貴線は服部川(はっとりがわ)で小さな段差に当たり,段差に沿って南に向きを変えます.『近畿の活断層』や『活断層デジタルマップ』によれば,この段差は沖積層を切る東上がりの活断層とされています.その地形を確認できました.
信貴山口駅手前で次の段差を斜めに登ります.こちらの方は山麓扇状地の末端とされていますが『近畿の活断層』ではこの北方延長400mから北の部分は活断層であると解釈しています.駅付近の地形を少しだけ歩いて見ましたが,平野からはかなり上がった位置にあり,侵食線とは考えにくいと思いました.段丘崖と活断層崖を見分けるのはむずかしい.
(「断層崖:断層変位を受けて生じた地殻表面部の急崖(狭義),またはその原形が侵食されてできた急斜面(広義).・・・また活断層によって生じた崖高の低い崖は活断層崖,とくに低い断層崖は低断層崖,地震断層で生じた崖は地震断層崖とよばれている.(有井琢磨)」1981年発行『地形学辞典』)
最近の知見では,生駒山地西側の直線的な崖地形は断層そのものではなく,地下に伏在する断層の活動により,地表に2次的に生じた地形と考えられているようです.
低断層崖?を斜めに上った先に近鉄信貴山口駅がある
信貴山ケーブルは山麓扇状地または崖錐斜面をかなりの勾配で登っていきますが,やがて傾斜変換線に達します.
そこからは基盤岩の白亜紀花崗岩が露出する領域になります.すごい急勾配です.運転手さんに聞くと最急部分で25%勾配とのこと.生駒山地西側の構造性の急崖を一気に登ります.
信貴山ケーブル(信貴山口駅)
信貴山ケーブルは25%(1000分の250)の急勾配
ケーブル終点からは急になだらかになります.
信貴山門バス停そばの有料駐車場北側の崖に,花崗岩質岩が露出していました.
信貴山から南の生駒山地を造っている,領家古期の,面構造が発達した角閃石黒雲母トーナル岩です.伊那山地の非持(ひじ)トーナル岩とひじょうによく似ています.長石が丸みを帯びていて,一見,弱マイロナイト化しているようにも見えます.しかし顕微鏡で見なければなんとも言えません.面構造はほぼ水平,線構造はほぼ東西です.
角閃石黒雲母トーナル岩(信貴山門)
伊那の領家帯では,おおむね,中央構造線付近に古期,木曽山脈(中央アルプス)に新期の花崗岩が分布しています.しかし,近畿地方では中央構造線からずっと離れた生駒山地南部に古期の花崗岩類があり,その北の生駒山と南方の中央構造線に近い金剛山に新期の花崗岩類が分布しています.
20万分の1地質図には,信貴山頂に新第三紀の瀬戸内火山岩が記されています.二上山のサヌカイトよりは新しい流紋岩〜安山岩に区分されています.朝護孫寺の境内や駐車場付近の露頭で確認できました.
朝護孫寺がある信貴山の高所は,領家花崗岩の基盤を新第三紀中新世の火山岩が覆っている.
信貴山朝孫護寺境内の火山岩(すぐそばの露頭からの転石)
境内駐車場下の貯水池の崖には花崗岩が見え,駐車場付近が白亜紀花崗岩と上位の新第三紀火山岩の境界のようです.
案内図には,貯水池から北西へ沢を700mほどたどった先に弁財天の滝が記されています.滝は異なる岩種の境界にできることが多いので,時間はほとんど無いのですが,行けるところまで行ってみることにしました.
滝の手前200mの断食道場のところで時間切れになりましたが,そこで川床に凝灰角礫岩が露出しているのを見ることができました.
信貴山弁財天滝への道沿いに見られた凝灰角れき岩
奈良県側に下り,2列の山地(生駒山地と矢田丘陵)の間の谷を北上.「神代も知らぬ」竜田川は,この谷を流れる川だと初めて知りました.
生駒山ケーブルで通学する小学生
ケーブルが登る生駒山地東斜面は,断層で切れ上がっている西斜面と異なり,やや緩やかです.傾動低下側の生駒線の低地には大阪層群下部層が分布しているように地質図には描いてありますが,市街地化していて確認できませんでした.
登るにつれ,生駒市街地の東側の小山地(矢田丘陵)を切り上げている矢田断層の断層崖がよく見えます.
宝山寺から矢田断層の断層崖
宝山寺までは山麓扇状地か崖錐斜面,その上から領家新期花崗岩が露出しています. 生駒聖天の岩塔の麓に花崗岩の小露頭を見つけました.この頂部が丸みを帯びた岩塔は花崗岩と思いましたが,最近この付近に瀬戸内火山岩が分布しているという記述を見つけたので,確かめたいところです.
ケーブル宝山寺駅から生駒聖天の岩塔
生駒山頂は広大な遊園地で,南へ続く稜線も通信施設が建てられていて,完全に人工改変されており,がっかりしました.もちろん露頭もありません.
大阪側のドライブウェイ旧料金所付近でようやく,生駒山頂部を造っている,斑れい岩の露頭を見つけました.
生駒山頂の斑れい岩
生駒山地の古期花崗岩・新期花崗岩・斑れい岩の分布と,地形を造っている大規模活構造がおおまかに分かったので,いちおう目的は果たせました.
河内長野〜橋本で和泉山地を越えるのですが,トンネルが多く,領家新期花崗岩から和泉層群への変化は追えませんでした.
活断層(赤線)は岡田・東郷編『近畿の活断層』東京大学出版会(2000)による.菖蒲谷断層の南側の高位段丘に大阪層群,北側の和泉山地に和泉層群が分布.活断層である五条谷断層は,和泉山地内を通って断層鞍部地形を造っている.紀ノ川の南岸には,三波川変成岩が露出している.
以前に橋本の紀ノ川河床で三波川変成帯の黒色片岩を見ました.そのとき紀ノ川北岸の地形や中央構造線活断層系による地形も見ました.
紀ノ川北岸側は,低位段丘の北側に大阪層群の高位段丘〜丘陵面があり,その北側に和泉層群からなる山地に続いています.段丘〜丘陵面は北から紀ノ川に流れ込む支流によってかなり深く侵食されています.そのため段丘面上を行く農免道路は谷を渡るたびに山側を大きく迂回するオメガカーブが連続していて,伊那谷の田切地形と似ていました.
高位段丘〜丘陵面と山地との境は更新世の大阪層群と白亜紀の和泉層群の境になっています.その付近に地質境界としての中央構造線があるとされていますが,そのときには三波川変成岩の露出は見つけられませんでした.段丘面を侵食している川の谷底をさがせば,もしかしたら見つかるかもしれません.この山麓線に活断層の菖蒲谷断層があります.
そして和泉山地に入ったところに最も活動的な五条谷断層があります.はじめてここの地形を見たときには,五条谷断層が山の中なのでびっくりしました.
今回は,紀伊清水〜九度山の南海線の車窓から,その地形を南岸側から見ることができました.山麓の地形変換線や五条谷断層沿いの谷がはっきりと確認できました.
外帯側は,ここでは秩父帯が欠如していて,上古沢付近でいきなり三波川変成帯から四万十帯に変わるように20万分の1地質図には描かれています.
四万十帯は高野山付近は新しいユニットで,もっと南方に古いユニットがあるように描かれています.紀伊半島では付加体の配列が,後生的に低角の大規模断層によって入れ替わったという考えが,磯崎氏らにより提唱されています.
植生は,ほとんど杉の人工林で,一部に常緑広葉樹が見えます.川底からかなり上がった斜面に集落が点在する,中央構造線の外帯側によく見られる風景が続きます.1ヶ所だけ川沿いの低地に集落がありました.
ここは,ミカンではなく柿の産地のようで,西向き尾根の急斜面に柿の木の果樹園がありました.
高野は隔絶した山上の町です.東京の池上という門前町で育った私は,お寺が並ぶ風景にこころが和みます.
しかしここの規模はすごい.僧侶だけで1000人とか.山岳と関係が深いチベット経由の密教であることと,政治から距離を置いて後世に長く伝えていくために,空海はここに道場を開いたのでしょうか.ここから紀伊半島の山地の稜線伝いに山岳信仰の道がつながっている地理が少し分かりました.紀伊の国が紀伊半島東岸まで続いていることや,家康が御三家のひとつを紀州に置いた背景として尾根を結ぶ道があったのでしょう.
高野山の町には雪が残っていました.
高野山金剛峰寺
河内長野→吉野→桜井
昨年,和歌山→五条→大和高田→桜井→奈良と通った時,大和三山のうち畝傍山と耳成山も瀬戸内火山岩の残丘で.天香久山は領家花崗岩の尾根の末端であることは調べていました.
そのとき天香久山の南方の奥まった一画が飛鳥だと知り,びっくりしました.中学校の修学旅行で奈良に来てはいるのですが,法隆寺やら薬師寺やら東大寺やらがどこにあるかという地理を自分で調べることはなく,平城京も飛鳥も同じ奈良盆地のどこか以上の認識はなかったのです.まあ自分で興味を持って調べないかぎり,そんなものです.
今回近鉄線で飛鳥小盆地の西側を通ったわけですが,花崗岩が侵食された小丘陵地帯で,飯田市南方の三穂あたりと地質も地形も同じで,よく似た風景だと思いました.
下市口〜大和上市では,中央構造線の南側の,吉野川の北岸を近鉄線の線路が通っています.紀ノ川は上流部では吉野川と名を変えます.四国の吉野川と同じ名になります.
この付近では三波川変成帯の幅はひじょうに狭くなり,秩父帯は存在せず,おおむね吉野川の位置が三波川変成帯と四万十帯の境界になっています.河床の露岩も,三波川変成岩か四万十帯の岩石か,遠目では区別がつかないものもあります.
吉野も稜線上に町があります.いちおうロープウェィで上がってみましたが,吉野の町には20年以上前に来たことがあり,黒門で引き返して先を急ぐことにしました.下のロープウェィ駅そばで粘板岩の片理面の姿勢を測ってみましたが,走向は南北(N4°W),低角西傾斜(20°W)でした.
吉野の東方で三波川変成帯は消滅し,四万十帯が中央構造線に切られるようになります.興味深い地域ですが,車でないと行けない地域です.三重県側の高見峠から伊勢の間の中央構造線は何度も調べているので,残った東吉野地域はいずれ車を使って訪ねたいと思います.
伊賀盆地と伊勢湾を隔てる布引山地を青山トンネルをくぐると,伊勢湾側の水系になります.しかし伊勢の言葉は,名古屋弁ではなく関西弁に近い気がします.いかがでしょうか.
東海層群は,以前に知多半島東岸の美浜町で見たことがあり,「白っぽい地層」という印象を持っていました.今回も車窓から見る東海層群の丘陵地の崖は白い印象を確認しました.おそらく領家帯の花崗岩地域が堆積物の供給源になっているためでしょう.
師崎層群分布域は地形的には小山地になっています.日が暮れて,それ以上は分かりませんでした.将来の課題です.